2005年07月20日
本当に「度胆」を抜かれた二本松藩士
二本松藩・小川平助は、一個小隊で薩長土、彦根、大垣、忍、館林、黒羽の大軍を相手に健闘した、優秀な軍師でした。
最後は西軍に斃されてしまうのですが、早乙女貢氏著の「会津士魂〈9〉二本松少年隊」では、小川を斃した後の西軍の行動が次のように記されています。
「大した敵であった」※会津士魂〈9〉二本松少年隊より引用
と、手こずらされただけに西軍は小川の死体を見て慨嘆した。
「こやつ軍師だというぞ、山鹿流の兵法師範だそうな」
「山鹿流か何か知らんが、勇気があることは確かだ」
「どんな胆をしているかな」一人が言った。「勇気のあるやつの胆を食うと、こちらも剛勇の士になるというぞ」
「まさか」
「いや、本当だ。わしも聞いたことがある」
別の男も言った。その間に、一人が脇差を抜いて、小川の腹に刺した。まるで、牛か鶏でも裂くように、すーっと、切り開いた。
「どれだ胆は」
「まあ、任せろ」
こんな経験は何度でもあるかのように、一人が、血の中に手を突っ込んだ。どろどろの血の塊のようなものを掴みだした。
「やあ、生胆だ」
「おい、一人占めにするのか」
「われわれにもよこせ」
「騒ぐな、みんなにもやるさ、待ってろよ」
その脇差を包丁のようにして、生胆をざくざく切った。まわりにいた連中は、争ってつかみとってむしゃむしゃと食ったという。
「度胆を抜く」とはまさにこのこと!
このくだりを読んだとき、私は「えー、これってフィクションだよね」と、頭から疑っていました。
幕末って意外と最近のことだし。
が!
本当にあった話なのかもしれませぬ~・・・。
中村彰彦氏の著書、「幕末を読み直す―通説が語らない「歴史」の真実」では、幕末までは上記のような風習が残っていたことが紹介されていました。
また、「二本松藩史」にも、西軍が小川の胆を抜き取って食したことが記されてるようです。
軍師たることを知るに及んで、相語りて其の勇を称し、潜に胸を割いて胆を取り、争つて之を喰いしと云ふ、蓋し其の胆勇を学ばんと欲してなり
「ドギモを抜く」
「キモが座っている」
「キモが小さい」
これらの表現は、実際にあった風習から生まれたものだったのでしょうね。
やー、ちと猟奇的なエントリーになってしまいました。
お食事中の方、ごめんなさい!
03:奥羽越列藩 : 00:49 | コメント (2) | トラックバック
2005年06月01日
安藤信正・信勇親子の幕末:磐城平藩
安藤信正といえば、ご存知の通り、坂下門外の変で暗殺されそうになったことで有名な老中です。
彼は、老中であったと同時に磐城平藩の藩主でもありました。
また安藤信勇(のぶたけ)は、磐城平藩最後の藩主であり、信正の息子でもあります。
戊辰戦争の際、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍に抗戦しましたが、その後も転封という厳罰は逃れました。
二人の藩主は幕末をどう動いたのか。
「別冊歴史読本 幕末維新最後の藩主二八五人」を参考に、その動向を紹介したいと思います。
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安藤信正は、万延元年(1860)に若年寄から老中に昇進しました。
大老・井伊直弼の元でついた役は、外国事務取扱専掌。
桜田門外ので井伊直弼が倒れた後は、首座格の老中として外交・内政に勤めます。
外交では、プロシャとの条約、ヒュースケン暗殺事件、遣欧使派遣、小笠原諸島問題、樺太国境問題を担当。
内政においても、皇女和宮降嫁、水戸密勅の返納、金本位制の確立などの業績を上げました。
一方で信正は、国許である磐城平藩の治世にも勤めます。
まず70万両という藩の借金返済のために、臨時役員の人員整理を実施。
藩主家禄・諸経費も節約し、節約した分を藩債償却にあてました。
領民に対しても節約を施行させ、馬代金や種籾代などは貸与。
この節約策は後の藩主・信勇まで7年間続きました。
また、間引きを禁止し、かわりに養育料や扶助料を出すことで、人口増加を進めました。
しかし、文久二年(1862)正月十五日、信正は「廃帝論者」であるという説や、公武合体、開港論などに不満を持つ過激浪士が、坂下門外の変をおこします。
この事件で軽症をおった信正は老中職を辞任。
磐城平藩は二万石の減領とされ、信正自身も隠居・永蟄居の身となります。
信正の蟄居中、日本は倒幕へと回天していくことになります。
信正の後をついで磐城平藩主となった信勇は、慶応四年二月、朝廷からの召集に応じました。
これは、実兄(信勇は信州岩村田藩からの養子)が勤皇家だったことによるものと思われます。
そして、戊辰戦争が勃発。
京に滞在していた子・信勇は新政府軍側に参加。
一方、四年に及ぶ蟄居をとかれ磐城平に戻った父・信正は、奥羽越列藩同盟に参加しました。
磐城平藩で藩主を勤めた親子が、敵味方に分かれてしまったのです。
磐城平藩は、新政府軍に抗戦するも敗れ、信正は再び蟄居の身となりました。
そして明治四年十月、信正は53歳の生涯を閉じます。
戊辰戦争後、新政府は磐城平藩に対して減石・転封を命令。
ここで信勇が奔走します。
明治二年、信勇は朝廷に対し、磐城平藩の転封を取り消すよう嘆願書を提出します。
結果、7万両の献金が命じられましたが、磐城平藩の転封は無事取り消し。
信勇は磐城平藩知事を任命され、子爵。
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結局、磐城平藩は転封もなく、維新後も安藤家が治政に勤めることとなったので、領民にとっては安堵できる結果と言えるでしょう。
嘆願書を提出した信勇はどんな気持ちだったのでしょう。
最後の藩主としてせめて領民は守らなければ、と考えていたのか。
はたまた、国のために数々の業績を残した父が新政府から罰を受けているのに自分は・・・と歯がゆく思っていたのか。
諸外国から日本を守った父・安藤信正。
新政府から磐城平藩を守った子・安藤信勇。
スポットライトが当たる事はあまりない親子ですが、時代に翻弄されつつも勤めを全うした姿に感慨深いものを感じます。
安藤信勇
03:奥羽越列藩 : 12:38 | コメント (0) | トラックバック
2005年05月28日
相馬中村藩の戊辰戦争
私のような浅い知識の持ち主にとって、写真や図が豊富でありがたい歴史群像シリーズ。
会津戦争をテーマにしたものがあったので購入してみました。
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この中に「混迷極めた東北諸藩の内情-列藩同盟の成立から瓦解への道程」というコーナーがあり、東北諸藩の動向が記されていました。
とりあえず、自分の出身地を理解しないとね!
私の実家の住所は、旧
仙台で九条総督から会津討征を命じられたが、奥羽越列藩同盟に加わった。平潟上陸の政府軍と一戦交えたという。※会津戦争―痛憤白虎隊と河井継之助より引用
中村藩が支援した棚倉や磐城平が落城し、自領中村城が政府軍に包囲されると、戦意を示さず攻撃軍に内通、八月六日(1868.3.1)開城。それ以後、政府軍の本部になった。政府軍に一万両を献上、城地所領従通りの沙汰をうけ、平民政局からは、一円の民生取締りを命じられている。
う、むう・・・コメントが難しい・・・。
ちなみに「別冊歴史読本 幕末維新最後の藩主二八五人」によると、最後の藩主・相馬誠胤は、明治二年には藩知事に就任するも、明治十年に精神を病み、一時東京の麹町に監禁されていたとか。
そして明治二十五年、40歳で病没。
減封を免れたことで、藩主として民を守るという役目を全うすることができました。
また、本人も新政府のもとで藩知事という要職につきました。
・・・しかし武士として、はたしてその行動が正しかったのか。
精神を病むほど悩み、後悔していたのかもしれませんね・・・。
なお、上記引用の磐城平藩は、相馬中村藩の南に位置しています。
このときは、坂下門外の変で暗殺されそうになった元老中・安藤信正が前藩主です。
信正は奥羽越列藩に加わるものの、信正の子であり藩主である子・信勇(のぶたけ)は朝廷から召集に従います。
・・・エピソードとしては磐城平藩のほうが面白そうです。
また後日つっこんでみたいと思います!