2005年06月27日

海援隊隊士、それぞれの入隊時期-その二

前回の続きです。


慶応二年(1866)二月。
すでに薩長同盟は成立し、功績のあった亀山社中には諸藩からの参加者が増加します。

薩摩藩士・村田晋八らから社中に宛てられた手紙に、隊士の名前があります。

二月二十四日 村田晋八
       川村与十郎
小谷耕造
菅野覚兵衛様

小谷耕造
(越前:隊内唯一の佐幕派。)

佐幕派の人物も受け入れているところに、亀山社中の社風(?)が伺えます。


続く、同年三月。
龍馬が高松太郎に宛てた手紙の中で、池蔵太(土佐:天誅組の挙兵、禁門の変などで活躍。)の参加が提案されています。

左馬事ハ海軍の事ニハ今ハ不幸者と雖も、度々戦争致候ものなれバ、随分後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候。

文中の「左馬」が、池蔵太の別名・細川左馬之助を指しています。

池は、この直後の五月二日、帆船ワイルウェフ号の仕官として航海中に遭難、水死します。


このとき、同じく水死したのが、船長を務めていた黒木小太郎(鳥取:文久三年一月勝海舟に入門。)。
また、生き延びた者として、佐柳高治(讃岐)が判明しています。

この二名が社中に参加した時期は不明ですが、神戸海軍操練所以来、龍馬とともに行動していたのではないか、と言われています。

つづく。

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2005年06月18日

海援隊隊士、それぞれの入隊時期-その一

知ってるようで知らないなーと思い、調べてみました。

海援隊の前身は、ご存知のとおり亀山社中です。

その、亀山社中創立(慶応元年五月?)を実家に報告する龍馬の手紙(同年九月)に、まず3人の名前があります。

私共とともニ致し候いて、盛なるハ、二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら甘人計の同志引きつれ、今長崎の方ニ出、稽古型仕り候。

河田小龍のもとで出会った仲間が中心のようです。

二丁目赤づら馬之助=新宮馬之助
(土佐:河田小龍の門人。文久三年(1863)二月ごろ勝海舟に入門。)

水道通横町の長次郎=近藤長次郎
(土佐:河田小龍の門人。文久二年二月ごろ勝海舟に入門。)

高松太郎
(土佐:龍馬の姉・千鶴の長男。文久三年一月勝海舟に入門。)

ちなみに「望月ハ死タリ」の望月とは、池田屋事件で新撰組に斃された望月亀弥太のことです。


そして、同年十二月に締結された「桜島丸条約」に、さらに4人の名前が記載されています。
「桜島丸条約」とは、表立って軍艦が購入できない長州藩のために、薩摩名義で購入した軍艦「ユニオン号(桜島丸)」を、亀山社中のスタッフが乗組員として操縦するための、使用協定です。

一、乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内新左衛門、早川二郎、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫、火焚者、従来召連之者を以、航海仕り候(中略)

慶応元年丑二月
 上杉宗二朗
 中島四郎殿
 坂本龍馬殿

多賀松太郎は高松太郎。寺内新左衛門とは新宮馬之助の別名です。
また、報告者の上杉宗二朗も、近藤長次郎の別名です。

この文から、さらに明らかになったメンバーは以下の4人。

菅野覚兵衛
(土佐:文久三年一月勝海舟に入門。のちにお龍の妹・起美と結婚。)

白峰駿馬
(越後:文久二年、龍馬よりはやく勝海舟に入門。維新後、国内初の民間造船所・白峰造船所を設立。)

早川二郎
(出身地、詳細ともに不明・・・)

前河内愛之助=沢村惣之丞
(土佐:龍馬とともに脱藩。文久三年勝海舟に入門。)

社中設立を報告する龍馬の手紙には三人の名前しかありませんが、「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事」によると、上記の7人+坂本龍馬が亀山社中創立メンバーではないか、とされています。


その後に参加するメンバーの参加時期については、また後日触れてみたいと思います。

05:土佐藩 : 01:22 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月14日

坂本龍馬:実は薙刀(ナギナタ)が得意だった?

「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事 一九九八年八月号」(新人物往来社)に、龍馬の剣術の腕について考察している記事がありました。

私にとってかなり意外だったので紹介します。



安政五年一月、二十二歳の龍馬は定吉から「北辰一刀流長刀兵法」を授けられた。(中略)
目録には二十一の型名のあと、奥書に「北辰一刀流長刀兵法稽古執心不浅、組数相済、其上勝利之働依有之、家流始之書、此一巻差進之候」と記されている。


剣術の目録は「北辰一刀流兵法」となり、「長刀」の文字はないそうです。

またどちらの目録も「家流始之書」と記されている一方で、中目録免許は「当流書之二」、大目録免許の場合は「大目録皆伝差進之候」となっている、とか。

つまり、坂本龍馬が授けられたのは、免許や皆伝ではなく、薙刀の初目録だったということになります。


この話って有名なんですかねー。
剣の達人であるはずの龍馬が、実は薙刀使いだったなんて・・・

坂本龍馬については結構知っているほうだと思っていたのですが・・・勉強不足でした。

北辰一刀流免許皆伝保持者で剣の達人。
しかし、幕末の動乱にあってもその剣を振るうことはなかった。

坂本龍馬の剣術に対する、私のイメージはそんな感じでした。
龍馬の北辰一刀流免許、発見されないかなぁ。

ちなみに、この目録の巻末には、北辰一刀流開祖千葉周作、定吉、重太郎に続いて、佐那、里幾(りく)、幾久(いく)と、定吉の三人の娘の名前が記されているそうです。

なんと、坂本龍馬本人が三姉妹の名前を入れるように頼み込んだという資料があるんだとか。

定吉、重太郎親子は剣術道場主親子なので剣術を指導していたと考えるのが普通だと思います。
とすると、龍馬の薙刀は、千葉家の三姉妹に習ったものであってもおかしくない。

江戸へ出てきてようやく手にした目録に、自分の師である人々の名前を入れたいと思うのは、なんとも龍馬らしい気がします。


それとも単に、恋仲であった佐那の名前を入れたかっただけ・・・?(笑)

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