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2005年05月28日

相馬中村藩の戊辰戦争

私のような浅い知識の持ち主にとって、写真や図が豊富でありがたい歴史群像シリーズ。
会津戦争をテーマにしたものがあったので購入してみました。

会津戦争―痛憤白虎隊と河井継之助
星 亮一 稲川 明雄 上田 滋
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5 白虎隊のみにとらわれない「会津戦争」

この中に「混迷極めた東北諸藩の内情-列藩同盟の成立から瓦解への道程」というコーナーがあり、東北諸藩の動向が記されていました。


とりあえず、自分の出身地を理解しないとね!
私の実家の住所は、旧相馬中村藩の領地にあたりますので、相馬中村藩の動向を引用してみます。(マニアック!)

仙台で九条総督から会津討征を命じられたが、奥羽越列藩同盟に加わった。平潟上陸の政府軍と一戦交えたという。
中村藩が支援した棚倉や磐城平が落城し、自領中村城が政府軍に包囲されると、戦意を示さず攻撃軍に内通、八月六日(1868.3.1)開城。それ以後、政府軍の本部になった。政府軍に一万両を献上、城地所領従通りの沙汰をうけ、平民政局からは、一円の民生取締りを命じられている。
会津戦争―痛憤白虎隊と河井継之助より引用


う、むう・・・コメントが難しい・・・。


ちなみに「別冊歴史読本 幕末維新最後の藩主二八五人」によると、最後の藩主・相馬誠胤は、明治二年には藩知事に就任するも、明治十年に精神を病み、一時東京の麹町に監禁されていたとか。

そして明治二十五年、40歳で病没。


減封を免れたことで、藩主として民を守るという役目を全うすることができました。
また、本人も新政府のもとで藩知事という要職につきました。

・・・しかし武士として、はたしてその行動が正しかったのか。
精神を病むほど悩み、後悔していたのかもしれませんね・・・。


なお、上記引用の磐城平藩は、相馬中村藩の南に位置しています。
このときは、坂下門外の変で暗殺されそうになった元老中・安藤信正が前藩主です。

信正は奥羽越列藩に加わるものの、信正の子であり藩主である子・信勇(のぶたけ)は朝廷から召集に従います。


・・・エピソードとしては磐城平藩のほうが面白そうです。

また後日つっこんでみたいと思います!

03:奥羽越列藩 : 15:11 | コメント (0) | トラックバック

福島・会津若松市民訪問団 元藩士ゆかりの地巡る

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訪問団長、談
「官兵衛は地元会津ではあまり知られていないが、肥後の人たちの官兵衛に対する熱い思いに感激した。地元でもしっかり顕彰していきたい」

ええっ?意外!
鬼官兵衛って、会津ではあまり知られていないんだ・・・。

10:幕末トピックス : 14:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月26日

幕末の外国公使館展 新発見資料も公開--東京・港区

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東京都港区に「郷土資料館」なんてあったんですねー。

地元の人が描いたスケッチや、ハリスのサーベルや書簡など、100点も展示されるようです。
アメリカ公使館の警備日誌『善福寺出張中日記』はおととし発見された新しい資料だとか!

7月3日まで無料だそうです。行くべし!


港郷土資料館
・上京した際は、港区にホテルをとっていろいろな大使館のまわりを散策してみるのもいいですね。

10:幕末トピックス : 20:19 | コメント (0) | トラックバック

皇女和宮降嫁の関連資料、展示--9月11日まで、御代田町で

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資料が展示される御代田町には、和宮の降嫁行列が昼食をとった小田井宿があったらしいです。

昼食をとって通行しただけですが、それだけのために住民がどれだけ大変な思いをしたのか。

私たち現代人には考えられない、当時の人々の感覚を感じることができるかもしれませんね。

浅間縄文ミュージアム
・軽井沢が近いんですね。のんびりと宿泊する場合は、鉄道沿線検索がオススメ。
最寄り駅は「御代田」です。

10:幕末トピックス : 20:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月25日

京都守護職始末

幕末の資料として一級品と言えるもののひとつに「京都守護職始末」があります。

これは、旧会津藩家老であった山川浩が、会津藩の正義を世に訴えるために明治44年に発行したものとされていますが、実際は山川浩の死後にその弟である山川健次郎の手によって完成・発行されました。

この本は、明治維新の真実を揺るがすような内容であったため、発刊される数年前にすでに完成していたにもかかわらず、明治政府からの圧力により発行は見合わされていたのです。

当時、旧会津藩主・松平家の家政顧問であった山川健次郎は、財政が貧窮した松平家を救うため、長州出身で陸軍中将だった三浦梧楼らに、孝明天皇が容保に与えた書簡と和歌を見せて経済的な援助を求めます。

それらは孝明天皇松平容保への信頼の厚さが伺えるものでした。

会津を賊として討った明治政府としては、非常に具合が悪い。
どうすべきか・・・三浦は山県有朋らと相談します。

結果、松平家に三万円を下賜し、それと引き換えに「京都守護職始末」の出版を差し控えて欲しいと申し入れることになります。

「京都守護職始末」の発行は兄・浩の悲願でしたが、健次郎は松平家を救うためにこの条件をのみます。

しかし、明治37年。
元会津藩家老・神保内蔵助の次男で、後に長崎市長となった北原雅長が、会津藩の勤皇の立場を顕した「七年史」を出版します。

「七年史」に上記の書簡と和歌が載っていたことから、健次郎はもはや出版を自粛する必要がないと判断。

明治44年11月。
ついに「京都守護職始末」を発行しました。

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こちらが「京都守護職始末」に添付されている書簡です。
京都守護職始末書簡1
京都守護職始末書簡1

表紙
京都守護職始末書表紙

明治44年発行。非売品だったようですね。(見づらくてすみません)
京都守護職始末書詳細


それにしても・・・明治のものなので、まともに読むのは難しいです。(笑)

口語訳されたものを買わねば!

01:会津藩 : 23:52 | コメント (4) | トラックバック

2005年05月24日

茨城県立歴史館:幕末の書2幅紛失…価値不明

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オイオイオイーーーーッ!


紛失したのは、徳川斉昭の第十四子の余四郎麻呂の「一行書」と、水戸藩士・茅根寒緑(ちのねかんろく)という人の漢詩だとか。

茅根寒緑という人は知らなかったのですが、なんでも弘道館開設の学則制定にも関わり、また、あの安政の大獄で死罪となったそうで。

水戸藩としては、二人とも一級の人物だったと言えるのではないのでしょうか。
紛失した資料も、きっと幕末の水戸藩の情勢を知る上で重要な資料であったはず。


・・・むう。
そう考えると、弁償金44万円って安くないですか??


いずれにせよ、公共の施設とはいえ、人に大切なものを預けたならば自分からマメに確認したほうがよさそうですね・・・。


茨城県立歴史館

10:幕末トピックス : 19:43 | コメント (0) | トラックバック

沖田総司:白河脱藩の時期

奥州白河藩士・沖田勝次郎の長男として生まれた沖田総司
しかし、みなさんご存知のとおり、身分は「白河脱藩」とされています。

私はなんとなく、なにか理由があって、私衛館に内弟子として入門した時からすでに「白河脱藩」だと思っていました。


「沖田家文書」や「新撰組遺聞」によれば、沖田総司の入門期は9歳~13歳ぐらいだとされています。
・・・普通に考えるとそんな少年に脱藩などできるはずがないですよね。

では、いつ脱藩したのでしょうか?
それを知る手がかりとなる書簡があるようです。

安政六年(1859)四月十九日(5/14)
沖田総司、出稽古のため初めて小島家を訪れる。

○近藤門人、阿部候惣次郎来ル (「小島家日記」)

「阿部候」は奥州白河藩主の阿部氏のことで、沖田が後年「白河脱藩」を”自称”したとされるが、このとき沖田家はまだ阿部家とのつながりがあったことになる。現に、後に浪士組として上洛しその後、新徴組隊士となる義兄の林太郎は、文久三年五月ごろに提出した身上書に「阿部播磨守元家来」としており、上洛直前まで阿部家に籍があったことを物語っている。
新選組日誌 コンパクト版〈上〉より引用


沖田総司が生まれた年は天保一三年(1842)とされています。
上記の書簡から、16、17歳のころはまだ白河藩士として禄を食んでいたことになります。

また、沖田家文書にこんな記述があります。


当時元服し跡目相続すべき所、何故か大望を抱き、禄を戴くことを拒み、主家を脱藩し、相続は姉光子時に十四歳に婿を取り相続なさしめたり。其の養子は沖田林太郎藤原元常と云う。(沖田家文書)

つまり、総司が脱藩したため義兄の林太郎が沖田家を継いだ、とされているのです。

その林太郎が浪士組が結成されたのが文久三年(1863)に「阿部播磨守元家来」としていたということは、総司の脱藩時期は16~21歳ぐらいの間と考えられます。


それにしても、総司も林太郎もなんのために脱藩したのでしょうか?


浪士組に参加するためには、やはり「浪士」でなければならなかったのでしょうか・・・ね?

02:新撰組 : 00:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月13日

山南敬助:「ヤマナミ」 or 「サンナン」?

山南敬助といえば、言わずもがな、非業の死を遂げた新撰組の大幹部です。

「山南」ってめずらしい性ですよね。

あなたはこれ、どう読んでますか?

昨年の大河ドラマをはじめ、多くの小説やドラマ・映画では「ヤマナミ」だと思います。
ちなみに私も「ヤマナミ」です。

しかし、こんな書簡が残っているそうです。

正月十五日
 弐本 三南 啓助
 一本 近藤 宗助
 弐本 土方 年蔵
 一本 中村太吉郎
 一本 日野 信蔵
 一本 井上源三郎
 一本 原 幸之助
 一本 土方 捨吉

 古谷優之助


正月十六日
 一本 近藤 勇先生
 同  三男 啓介
 同  近藤 宗助
 一本 天野清十郎

 古谷優之助

(「剣術覚書帳」)
新選組日誌 コンパクト版〈上〉より引用

文久元年(1861年)に、多摩の古谷道場で行われた新年の稽古の様子です。
「古谷優之助」が記しています。


ここに記されている「三南 啓助」「三男 啓介」は、山南敬助のことであると思われます。

「三南」「三男」は「ヤマナミ」とは読めません。
つまり、山南敬助「サンナンケイスケ」と呼ばれていたことがわかります。


「誰が何本とったよ」というだけの書簡から、こんな興味深いことがわかるんですね!

余談ですが、「近藤 宗助」とは近藤勇の養父である近藤周助です。

勇に「先生」がついて周助に敬称がついていない・・・
ということは、このとき勇は私衛館四代目を継いでいたと思うのが普通ですよね。

ですが、小島鹿之助が佐藤彦五郎に宛てた書簡によりますと、四代目襲名披露の野試合が行われたのは同年の旧暦8月27日。
つまりこの稽古よりも八ヶ月以上も先のこととなっています。


野試合は本当にお披露目的なもので、実際はもっと前に継いでいたということなのでしょうか?
結婚式は挙げたけど披露宴はまだ、みたいな。

まあいずれにせよ、周助のこの結果ではすでに引退していてもおかしくないですが!

02:新撰組 : 01:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月12日

岩崎弥太郎:ゆかりの史跡に説明板が完成、地元小学生らにお披露目

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岩崎弥太郎って、寺子屋を開いていたんですね。
ただの説明板かもしれませんが、あるのとないのとでは土地への愛着感が全然違うのでは?


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10:幕末トピックス : 19:34 | コメント (0) | トラックバック