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2005年06月29日

天忠組より天誅組

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天誅組の変の舞台、東吉野村にて、生き残った志士・北畠治房(平岡鳩平)の手紙が見つかったそうです。

その手紙では、幕府にへつらうやつを懲らしめるため『天誅(天罰)を加える』などと立て札に書いたのが天誅組の由来であり、「天子(天皇)に忠する」の意味じゃないよ!と指摘しているのだとか。

東吉野村で「天誅組終焉の地」展が開催中らしいのですが、そこでその手紙も見ることができるのでしょうか?
お近くの方、管理人の変わりにぜひ確かめてください。(笑)

10:幕末トピックス : 23:43 | コメント (2) | トラックバック

2005年06月27日

海援隊隊士、それぞれの入隊時期-その二

前回の続きです。


慶応二年(1866)二月。
すでに薩長同盟は成立し、功績のあった亀山社中には諸藩からの参加者が増加します。

薩摩藩士・村田晋八らから社中に宛てられた手紙に、隊士の名前があります。

二月二十四日 村田晋八
       川村与十郎
小谷耕造
菅野覚兵衛様

小谷耕造
(越前:隊内唯一の佐幕派。)

佐幕派の人物も受け入れているところに、亀山社中の社風(?)が伺えます。


続く、同年三月。
龍馬が高松太郎に宛てた手紙の中で、池蔵太(土佐:天誅組の挙兵、禁門の変などで活躍。)の参加が提案されています。

左馬事ハ海軍の事ニハ今ハ不幸者と雖も、度々戦争致候ものなれバ、随分後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候。

文中の「左馬」が、池蔵太の別名・細川左馬之助を指しています。

池は、この直後の五月二日、帆船ワイルウェフ号の仕官として航海中に遭難、水死します。


このとき、同じく水死したのが、船長を務めていた黒木小太郎(鳥取:文久三年一月勝海舟に入門。)。
また、生き延びた者として、佐柳高治(讃岐)が判明しています。

この二名が社中に参加した時期は不明ですが、神戸海軍操練所以来、龍馬とともに行動していたのではないか、と言われています。

つづく。

05:土佐藩 : 01:53 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月25日

幕末グッズ、紹介します

昨年の大河ドラマで新撰組がとり上げられて以来、幕末の志士や出来事を題材とした商品が増えた気がします。

まじめに探してみると、結構おもしろいものがたくさんあります。
「これ!欲しい!」というものはかなりありますし、私も実際にかなり購入しています。(笑)

購入した商品を眺めてひとりでニヤニヤしているのも寂しい。
まだ購入に至らないものは、購入された方の感想を聞きたい。

ならばと、このサイトの別館をつくり、そこで紹介していくことにしました。

というわけで、幕末屋、仮オープンです。

ぜひ、遊びにきてください。

20:お知らせ : 00:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月23日

いろは丸調査5度目の挑戦

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「いろは丸」は、土佐藩が大洲藩から五百両で借りて海援隊に使わせた船で、慶応三年(1867)に、紀州藩の「明光丸」と衝突し、広島県福山市鞆町沖で沈没しています。

このとき、坂本龍馬は、当時の国際法である「万国公法」を持ち出し、紀州藩から七万両を賠償させることに成功しているのはご存知のとおりです。

その「いろは丸」の五度目の発掘調査が計画されているようです。

ちなみに、これまで発掘された品々は、いろは丸展示館にて見学することができます。


広島県福山市の宿をとっていろは丸展示館を見学する

10:幕末トピックス : 23:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月21日

幕末・肥後藩士の遣米使節団旅行記、玉名の22校に贈る

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タイトルの肥後藩士とは、日本人で初めて世界一周した人物、木村鉄太のことです。

彼が記した「万延元年遺米使節 航米記」を、熊本の郷土史家・高野和人さんが現代語訳していたのですが、それが地元の小中高校に贈呈された、というニュースです。


このサイトを立ち上げ、幕末関連のニュースを探すようになってみてわかったこと。

それは、日本のあちこちで、「郷土の偉人や歴史を、地元の人々にもっと深く知ってもらいたい」と願い、その研究をライフワークとしている人がたくさんいるということです。

素敵です!
幕末.netは、そんな研究者の方々を草葉の陰から影ながら応援しています!


さて、「万延元年遺米使節 航米記」ですが、日記と120枚に上るスケッチからなっているとか。
日記はもちろんおもしろそうなのですが、スケッチに興味をそそられます。

現代語訳ではすべてのスケッチが紹介されているのでしょうか?
Amazon.co.jpにありましたので、さっそく注文しました。
到着が楽しみ!

万延元年遣米使節航米記―現代語訳
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10:幕末トピックス : 23:56 | コメント (2) | トラックバック

武運長久願う 祈祷札発見 姫路の魚吹八幡神社

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この祈祷札は、ペリー来航を受け、朝廷が全国の寺社に命じて「武運長久」や「国家安全」を祈らせた際に奉納された可能性が高いようです。

かなり大事に保管されていたようで、写真を見ると、文字もきれいに残っていますね。

それにしても、異国の脅威を祈りでなんとかしようなんて・・・

当時の公家がいかにパニックしていたのか。
その様子がうかがえます。

10:幕末トピックス : 23:44 | コメント (2) | トラックバック

2005年06月18日

海援隊隊士、それぞれの入隊時期-その一

知ってるようで知らないなーと思い、調べてみました。

海援隊の前身は、ご存知のとおり亀山社中です。

その、亀山社中創立(慶応元年五月?)を実家に報告する龍馬の手紙(同年九月)に、まず3人の名前があります。

私共とともニ致し候いて、盛なるハ、二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら甘人計の同志引きつれ、今長崎の方ニ出、稽古型仕り候。

河田小龍のもとで出会った仲間が中心のようです。

二丁目赤づら馬之助=新宮馬之助
(土佐:河田小龍の門人。文久三年(1863)二月ごろ勝海舟に入門。)

水道通横町の長次郎=近藤長次郎
(土佐:河田小龍の門人。文久二年二月ごろ勝海舟に入門。)

高松太郎
(土佐:龍馬の姉・千鶴の長男。文久三年一月勝海舟に入門。)

ちなみに「望月ハ死タリ」の望月とは、池田屋事件で新撰組に斃された望月亀弥太のことです。


そして、同年十二月に締結された「桜島丸条約」に、さらに4人の名前が記載されています。
「桜島丸条約」とは、表立って軍艦が購入できない長州藩のために、薩摩名義で購入した軍艦「ユニオン号(桜島丸)」を、亀山社中のスタッフが乗組員として操縦するための、使用協定です。

一、乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内新左衛門、早川二郎、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫、火焚者、従来召連之者を以、航海仕り候(中略)

慶応元年丑二月
 上杉宗二朗
 中島四郎殿
 坂本龍馬殿

多賀松太郎は高松太郎。寺内新左衛門とは新宮馬之助の別名です。
また、報告者の上杉宗二朗も、近藤長次郎の別名です。

この文から、さらに明らかになったメンバーは以下の4人。

菅野覚兵衛
(土佐:文久三年一月勝海舟に入門。のちにお龍の妹・起美と結婚。)

白峰駿馬
(越後:文久二年、龍馬よりはやく勝海舟に入門。維新後、国内初の民間造船所・白峰造船所を設立。)

早川二郎
(出身地、詳細ともに不明・・・)

前河内愛之助=沢村惣之丞
(土佐:龍馬とともに脱藩。文久三年勝海舟に入門。)

社中設立を報告する龍馬の手紙には三人の名前しかありませんが、「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事」によると、上記の7人+坂本龍馬が亀山社中創立メンバーではないか、とされています。


その後に参加するメンバーの参加時期については、また後日触れてみたいと思います。

05:土佐藩 : 01:22 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月15日

山田方谷:生誕200年記念、実行委が出版

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山田方谷とは、幕末に備中松山藩の藩政改革を果たした陽明学者。

彼の一生を、笠岡市在住の漫画家、南一平さんが漫画にしたそうです。

山田方谷は、地元である岡山県高梁市のブログ、山田方谷マニアックスに詳しく紹介されています。

ここに、漫画の購入の問い合わせ先なども公開されています。

10:幕末トピックス : 23:41 | コメント (0) | トラックバック

新史料「日本紀行」もとに、「吉田松陰の実学」出版

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幕末関連の書物に多少興味をお持ちの方ならご存知であろう、木村幸比古さんの著書です。

「日本紀行」は、幕末期に来日した米国・ペリー提督の「ペルリ提督日本遠征記」の翻訳本を松陰が抜き書きしたものとみられているそうです。

それが、松陰の知人である、萩市須佐の旧長州藩永代家老の家臣の子孫宅に伝わり、市内の松陰研究家、三輪正知さんが譲り受けのだとか。

著書のなかでは、「松陰はペリーの遠征記から、ペリーに何らかの陰謀のあることを感じ取った」と記しているとのことですので、吉田松蔭の、あのアツイ危機意識を支えたのはなにか?ということが垣間見れるのかも知れません。

ということで、さっそく注文してみました!

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このページは在庫状況に応じて更新されますので、購入をお考えの方は定期的にご覧ください。

10:幕末トピックス : 23:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月14日

坂本龍馬:実は薙刀(ナギナタ)が得意だった?

「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事 一九九八年八月号」(新人物往来社)に、龍馬の剣術の腕について考察している記事がありました。

私にとってかなり意外だったので紹介します。



安政五年一月、二十二歳の龍馬は定吉から「北辰一刀流長刀兵法」を授けられた。(中略)
目録には二十一の型名のあと、奥書に「北辰一刀流長刀兵法稽古執心不浅、組数相済、其上勝利之働依有之、家流始之書、此一巻差進之候」と記されている。


剣術の目録は「北辰一刀流兵法」となり、「長刀」の文字はないそうです。

またどちらの目録も「家流始之書」と記されている一方で、中目録免許は「当流書之二」、大目録免許の場合は「大目録皆伝差進之候」となっている、とか。

つまり、坂本龍馬が授けられたのは、免許や皆伝ではなく、薙刀の初目録だったということになります。


この話って有名なんですかねー。
剣の達人であるはずの龍馬が、実は薙刀使いだったなんて・・・

坂本龍馬については結構知っているほうだと思っていたのですが・・・勉強不足でした。

北辰一刀流免許皆伝保持者で剣の達人。
しかし、幕末の動乱にあってもその剣を振るうことはなかった。

坂本龍馬の剣術に対する、私のイメージはそんな感じでした。
龍馬の北辰一刀流免許、発見されないかなぁ。

ちなみに、この目録の巻末には、北辰一刀流開祖千葉周作、定吉、重太郎に続いて、佐那、里幾(りく)、幾久(いく)と、定吉の三人の娘の名前が記されているそうです。

なんと、坂本龍馬本人が三姉妹の名前を入れるように頼み込んだという資料があるんだとか。

定吉、重太郎親子は剣術道場主親子なので剣術を指導していたと考えるのが普通だと思います。
とすると、龍馬の薙刀は、千葉家の三姉妹に習ったものであってもおかしくない。

江戸へ出てきてようやく手にした目録に、自分の師である人々の名前を入れたいと思うのは、なんとも龍馬らしい気がします。


それとも単に、恋仲であった佐那の名前を入れたかっただけ・・・?(笑)

05:土佐藩 : 01:04 | コメント (5) | トラックバック

2005年06月10日

全国初、龍馬夫婦を制作--横須賀の仏師・梶谷叡正さん

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来年は、おりょうの没後100年なんですね。

おりょうの終焉地に住むものとして、横須賀の仏師・梶谷叡正さんが、龍馬夫婦の木造座像の制作を始めたようです。

完成したら、ぜひ見に行きたいです。

この記事を読んだら、仕事机に龍馬の像を置いてみたい!と思ったので、探してみました。

木像は見つけられなかったのですが、ブロンズ像を発見。

新ブロンズ坂本龍馬全身像新ブロンズ坂本龍馬胸像 

これを机の片隅に置けば、見るたびに「オレもやるぜー?」って気分になりますね。
あなたの机にもどうですか?

10:幕末トピックス : 19:02 | コメント (0) | トラックバック

「鉄舟の書」お披露目

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宝の玉から火炎が上がっている様子がカッコイイです。

鑑定結果は、静岡市清水区で催された山岡鉄舟講演会の主催者らによるものだそうです。
研究者や専門家による正式な鑑定はこれからなのかな?

本物だといいですね。

10:幕末トピックス : 18:45 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月09日

カレーと一緒に地ビールはいかが

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横濱カレーミュージアムで、ビールフェアが開催されたようです。


・・・え?幕末と関係あるのかって?


日本のビールは、ペリーが幕府に「麦酒」を献上したのがその始まりらしいです。
そのため、横浜は「ビール伝来の地」なんだとか。

ありですよね。
幕末トピックスとしてありですよね!

その献上されたビールをレシピ通りに復元した、「ペルリビール」も飲めるらしいですよ!


幕末のあの志士たちもビールのラベルに。
明治維新(12人衆)

10:幕末トピックス : 18:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月08日

地域で守った小笠原藩資料 豊津で展示

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第14代将軍の徳川家茂からの礼状や、江戸時代後期の小倉城下絵図など約100点が展示されているそうです。

この写真で見た感じですと、相当デカイです。絵図。

城下絵図とは、どれもこんなものなのでしょうか。

10:幕末トピックス : 17:06 | コメント (6) | トラックバック

2005年06月07日

橘曙覧文学館が入館5万人達成

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橘曙覧(たちばなのあけみ)という人は、幕末の勤皇歌人であり、
松平春嶽や中根雪江とも親交があったようです。

福井市のHPに詳しく紹介されています。

10:幕末トピックス : 16:48 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月04日

中根市之丞の墓 保護を/元国鉄マン訴え

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地元に関係する人物の研究をして余生を送る。
素敵ですね。
中根市之丞の墓が保護されることを祈ります。

ちなみに中根市之丞という人はこんな人だったようです。

中根市之丞(1837~63)は6千石の直参旗本で、幕末の文久3(1863)年7月、長州藩による外国船襲撃事件(下関)や小倉藩領の不法占拠事件の査問のため、江戸幕府から派遣された。長州藩の過激派は、中根らが乗ってきた「朝陽丸」を下関沖で襲撃。一行は命からがら逃れ、江戸に戻ろうと中関(防府)沖を小舟で航行中、追跡してきた一味に切り殺されたという。一連の事件では7人が犠牲になったとされる。

10:幕末トピックス : 22:11 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月03日

奈良・十津川高 創設者の志学ぶ/隠岐訪問

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奈良・十津川高校の前身は、孝明天皇の勅命で1864年に創立した「文武館」で、創立者の儒学者・中沼了三は、京都で私塾を開き幕末の志士を教え、また明治天皇の家庭教師をも務めた人だとか。

中沼了三という人は、学んだことを実践すべし、と説いてきたらしいです。

み、耳が痛いなぁ・・・。

10:幕末トピックス : 20:11 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月02日

東京・千代田区役所新築現場の不発弾、計354発回収

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江戸末期から明治初頭まで幕府や明治政府の厩(うまや)として使われ、明治期には、大隈重信の邸宅があった場所だとか。

それにしても、354発って・・・。

百年以上も無事だったということは、大隈重信の運もそうとう強かったということでしょうか。(笑)
事故がなくてよかったです。

10:幕末トピックス : 23:51 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月01日

安藤信正・信勇親子の幕末:磐城平藩

安藤信正といえば、ご存知の通り、坂下門外の変で暗殺されそうになったことで有名な老中です。
彼は、老中であったと同時に磐城平藩の藩主でもありました。

また安藤信勇(のぶたけ)は、磐城平藩最後の藩主であり、信正の息子でもあります。

戊辰戦争の際、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍に抗戦しましたが、その後も転封という厳罰は逃れました。

二人の藩主は幕末をどう動いたのか。
「別冊歴史読本 幕末維新最後の藩主二八五人」を参考に、その動向を紹介したいと思います。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

安藤信正は、万延元年(1860)に若年寄から老中に昇進しました。

大老・井伊直弼の元でついた役は、外国事務取扱専掌。
桜田門外ので井伊直弼が倒れた後は、首座格の老中として外交・内政に勤めます。

外交では、プロシャとの条約、ヒュースケン暗殺事件、遣欧使派遣、小笠原諸島問題、樺太国境問題を担当。
内政においても、皇女和宮降嫁、水戸密勅の返納、金本位制の確立などの業績を上げました。


一方で信正は、国許である磐城平藩の治世にも勤めます。

まず70万両という藩の借金返済のために、臨時役員の人員整理を実施。
藩主家禄・諸経費も節約し、節約した分を藩債償却にあてました。
領民に対しても節約を施行させ、馬代金や種籾代などは貸与。
この節約策は後の藩主・信勇まで7年間続きました。

また、間引きを禁止し、かわりに養育料や扶助料を出すことで、人口増加を進めました。


しかし、文久二年(1862)正月十五日、信正は「廃帝論者」であるという説や、公武合体、開港論などに不満を持つ過激浪士が、坂下門外の変をおこします。

この事件で軽症をおった信正は老中職を辞任。
磐城平藩は二万石の減領とされ、信正自身も隠居・永蟄居の身となります。

信正の蟄居中、日本は倒幕へと回天していくことになります。


信正の後をついで磐城平藩主となった信勇は、慶応四年二月、朝廷からの召集に応じました。
これは、実兄(信勇は信州岩村田藩からの養子)が勤皇家だったことによるものと思われます。

そして、戊辰戦争が勃発。
京に滞在していた子・信勇は新政府軍側に参加。
一方、四年に及ぶ蟄居をとかれ磐城平に戻った父・信正は、奥羽越列藩同盟に参加しました。

磐城平藩で藩主を勤めた親子が、敵味方に分かれてしまったのです。

磐城平藩は、新政府軍に抗戦するも敗れ、信正は再び蟄居の身となりました。
そして明治四年十月、信正は53歳の生涯を閉じます。

戊辰戦争後、新政府は磐城平藩に対して減石・転封を命令。
ここで信勇が奔走します。

明治二年、信勇は朝廷に対し、磐城平藩の転封を取り消すよう嘆願書を提出します。
結果、7万両の献金が命じられましたが、磐城平藩の転封は無事取り消し。

信勇は磐城平藩知事を任命され、子爵。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

結局、磐城平藩は転封もなく、維新後も安藤家が治政に勤めることとなったので、領民にとっては安堵できる結果と言えるでしょう。

嘆願書を提出した信勇はどんな気持ちだったのでしょう。
最後の藩主としてせめて領民は守らなければ、と考えていたのか。
はたまた、国のために数々の業績を残した父が新政府から罰を受けているのに自分は・・・と歯がゆく思っていたのか。


諸外国から日本を守った父・安藤信正
新政府から磐城平藩を守った子・安藤信勇


スポットライトが当たる事はあまりない親子ですが、時代に翻弄されつつも勤めを全うした姿に感慨深いものを感じます。

安藤信勇

安藤信勇


いわき市へ行くなら湯本温泉でのご宿泊がオススメです

03:奥羽越列藩 : 12:38 | コメント (0) | トラックバック