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二〇〇五年 六月 一日(水)

安藤信正・信勇親子の幕末:磐城平藩

安藤信正といえば、ご存知の通り、坂下門外の変で暗殺されそうになったことで有名な老中です。
彼は、老中であったと同時に磐城平藩の藩主でもありました。

また安藤信勇(のぶたけ)は、磐城平藩最後の藩主であり、信正の息子でもあります。

戊辰戦争の際、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍に抗戦しましたが、その後も転封という厳罰は逃れました。

二人の藩主は幕末をどう動いたのか。
「別冊歴史読本 幕末維新最後の藩主二八五人」を参考に、その動向を紹介したいと思います。

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安藤信正は、万延元年(1860)に若年寄から老中に昇進しました。

大老・井伊直弼の元でついた役は、外国事務取扱専掌。
桜田門外ので井伊直弼が倒れた後は、首座格の老中として外交・内政に勤めます。

外交では、プロシャとの条約、ヒュースケン暗殺事件、遣欧使派遣、小笠原諸島問題、樺太国境問題を担当。
内政においても、皇女和宮降嫁、水戸密勅の返納、金本位制の確立などの業績を上げました。


一方で信正は、国許である磐城平藩の治世にも勤めます。

まず70万両という藩の借金返済のために、臨時役員の人員整理を実施。
藩主家禄・諸経費も節約し、節約した分を藩債償却にあてました。
領民に対しても節約を施行させ、馬代金や種籾代などは貸与。
この節約策は後の藩主・信勇まで7年間続きました。

また、間引きを禁止し、かわりに養育料や扶助料を出すことで、人口増加を進めました。


しかし、文久二年(1862)正月十五日、信正は「廃帝論者」であるという説や、公武合体、開港論などに不満を持つ過激浪士が、坂下門外の変をおこします。

この事件で軽症をおった信正は老中職を辞任。
磐城平藩は二万石の減領とされ、信正自身も隠居・永蟄居の身となります。

信正の蟄居中、日本は倒幕へと回天していくことになります。


信正の後をついで磐城平藩主となった信勇は、慶応四年二月、朝廷からの召集に応じました。
これは、実兄(信勇は信州岩村田藩からの養子)が勤皇家だったことによるものと思われます。

そして、戊辰戦争が勃発。
京に滞在していた子・信勇は新政府軍側に参加。
一方、四年に及ぶ蟄居をとかれ磐城平に戻った父・信正は、奥羽越列藩同盟に参加しました。

磐城平藩で藩主を勤めた親子が、敵味方に分かれてしまったのです。

磐城平藩は、新政府軍に抗戦するも敗れ、信正は再び蟄居の身となりました。
そして明治四年十月、信正は53歳の生涯を閉じます。

戊辰戦争後、新政府は磐城平藩に対して減石・転封を命令。
ここで信勇が奔走します。

明治二年、信勇は朝廷に対し、磐城平藩の転封を取り消すよう嘆願書を提出します。
結果、7万両の献金が命じられましたが、磐城平藩の転封は無事取り消し。

信勇は磐城平藩知事を任命され、子爵。

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結局、磐城平藩は転封もなく、維新後も安藤家が治政に勤めることとなったので、領民にとっては安堵できる結果と言えるでしょう。

嘆願書を提出した信勇はどんな気持ちだったのでしょう。
最後の藩主としてせめて領民は守らなければ、と考えていたのか。
はたまた、国のために数々の業績を残した父が新政府から罰を受けているのに自分は・・・と歯がゆく思っていたのか。


諸外国から日本を守った父・安藤信正
新政府から磐城平藩を守った子・安藤信勇


スポットライトが当たる事はあまりない親子ですが、時代に翻弄されつつも勤めを全うした姿に感慨深いものを感じます。

安藤信勇

安藤信勇


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03:奥羽越列藩 : 12:38 | コメント (0) | トラックバック

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