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二〇〇五年 六月 一四日(火)

坂本龍馬:実は薙刀(ナギナタ)が得意だった?

「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事 一九九八年八月号」(新人物往来社)に、龍馬の剣術の腕について考察している記事がありました。

私にとってかなり意外だったので紹介します。



安政五年一月、二十二歳の龍馬は定吉から「北辰一刀流長刀兵法」を授けられた。(中略)
目録には二十一の型名のあと、奥書に「北辰一刀流長刀兵法稽古執心不浅、組数相済、其上勝利之働依有之、家流始之書、此一巻差進之候」と記されている。


剣術の目録は「北辰一刀流兵法」となり、「長刀」の文字はないそうです。

またどちらの目録も「家流始之書」と記されている一方で、中目録免許は「当流書之二」、大目録免許の場合は「大目録皆伝差進之候」となっている、とか。

つまり、坂本龍馬が授けられたのは、免許や皆伝ではなく、薙刀の初目録だったということになります。


この話って有名なんですかねー。
剣の達人であるはずの龍馬が、実は薙刀使いだったなんて・・・

坂本龍馬については結構知っているほうだと思っていたのですが・・・勉強不足でした。

北辰一刀流免許皆伝保持者で剣の達人。
しかし、幕末の動乱にあってもその剣を振るうことはなかった。

坂本龍馬の剣術に対する、私のイメージはそんな感じでした。
龍馬の北辰一刀流免許、発見されないかなぁ。

ちなみに、この目録の巻末には、北辰一刀流開祖千葉周作、定吉、重太郎に続いて、佐那、里幾(りく)、幾久(いく)と、定吉の三人の娘の名前が記されているそうです。

なんと、坂本龍馬本人が三姉妹の名前を入れるように頼み込んだという資料があるんだとか。

定吉、重太郎親子は剣術道場主親子なので剣術を指導していたと考えるのが普通だと思います。
とすると、龍馬の薙刀は、千葉家の三姉妹に習ったものであってもおかしくない。

江戸へ出てきてようやく手にした目録に、自分の師である人々の名前を入れたいと思うのは、なんとも龍馬らしい気がします。


それとも単に、恋仲であった佐那の名前を入れたかっただけ・・・?(笑)

05:土佐藩 : 01:04 | コメント (5) | トラックバック

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トラックバック時刻: 2005年08月19日 05:05

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トラックバック時刻: 2005年08月24日 16:16

コメント

え、知らなかった!
司馬遼太郎などを読んでいても千葉の倅よりも使い手、なんてイメージありましたが。

本当のところはどうなのか分かりませんが、やはり竜馬には飄々としていながらも剣の達人であってほしいものです。

投稿者 たけうち : 2005年06月15日 22:59

初コメントありがとうございます!

どの研究者も、薙刀の初目録をもらっているならその前に剣術の初目録ももらっているだろう。最終的には、中目録、大目録までは授かったのではないか?と考えているようです。

いずれにせよ、今のところ千葉道場の倅・重太郎より使い手だったとは考えにくいみたいですね。

投稿者 管理人 : 2005年06月15日 23:23

1986年、高知の郷土史家の松岡司氏が、雑誌『日本歴史』454号(日本史の学術雑誌です)に、「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」という論稿を載せ、その中で、「北辰一刀流長刀兵法目録は、どうも薙刀の目録としかいいようがないようだ」と述べています。また、1988年に新人物往来社から出版された、小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』の中で、土居晴夫氏が、龍馬の目録は薙刀のものだと述べ、松岡氏の説も紹介しています。この1980年代後半ぐらいから、龍馬の目録=薙刀の目録という説が一般的になってきたようです。

投稿者 パルティアホースカラー : 2005年08月19日 05:04

パルティアホースカラー さま

薙刀説ってそんな昔からあったんですね。
勉強になります。

こうなるとますます、剣術の腕は実際どうだったのかが気になるところです!

投稿者 わだ[管理人] : 2005年08月23日 22:11

土佐藩では剣術修行にかこつけて洋学などを習わせに若者を江戸に送ッていた事実があり佐久間象山とのつながりも納得できる。私の読んだ本には大目録は龍馬が江戸にいた三年で取得できるものではないと書いてありました

投稿者 マサ : 2006年03月28日 20:50

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