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二〇〇五年 六月 一八日(土)

海援隊隊士、それぞれの入隊時期-その一

知ってるようで知らないなーと思い、調べてみました。

海援隊の前身は、ご存知のとおり亀山社中です。

その、亀山社中創立(慶応元年五月?)を実家に報告する龍馬の手紙(同年九月)に、まず3人の名前があります。

私共とともニ致し候いて、盛なるハ、二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら甘人計の同志引きつれ、今長崎の方ニ出、稽古型仕り候。

河田小龍のもとで出会った仲間が中心のようです。

二丁目赤づら馬之助=新宮馬之助
(土佐:河田小龍の門人。文久三年(1863)二月ごろ勝海舟に入門。)

水道通横町の長次郎=近藤長次郎
(土佐:河田小龍の門人。文久二年二月ごろ勝海舟に入門。)

高松太郎
(土佐:龍馬の姉・千鶴の長男。文久三年一月勝海舟に入門。)

ちなみに「望月ハ死タリ」の望月とは、池田屋事件で新撰組に斃された望月亀弥太のことです。


そして、同年十二月に締結された「桜島丸条約」に、さらに4人の名前が記載されています。
「桜島丸条約」とは、表立って軍艦が購入できない長州藩のために、薩摩名義で購入した軍艦「ユニオン号(桜島丸)」を、亀山社中のスタッフが乗組員として操縦するための、使用協定です。

一、乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内新左衛門、早川二郎、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫、火焚者、従来召連之者を以、航海仕り候(中略)

慶応元年丑二月
 上杉宗二朗
 中島四郎殿
 坂本龍馬殿

多賀松太郎は高松太郎。寺内新左衛門とは新宮馬之助の別名です。
また、報告者の上杉宗二朗も、近藤長次郎の別名です。

この文から、さらに明らかになったメンバーは以下の4人。

菅野覚兵衛
(土佐:文久三年一月勝海舟に入門。のちにお龍の妹・起美と結婚。)

白峰駿馬
(越後:文久二年、龍馬よりはやく勝海舟に入門。維新後、国内初の民間造船所・白峰造船所を設立。)

早川二郎
(出身地、詳細ともに不明・・・)

前河内愛之助=沢村惣之丞
(土佐:龍馬とともに脱藩。文久三年勝海舟に入門。)

社中設立を報告する龍馬の手紙には三人の名前しかありませんが、「歴史読本 検証 坂本龍馬の全仕事」によると、上記の7人+坂本龍馬が亀山社中創立メンバーではないか、とされています。


その後に参加するメンバーの参加時期については、また後日触れてみたいと思います。

05:土佐藩 : 01:22 | コメント (0) | トラックバック

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