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会津藩といえば、教育に力を入れていたことでも有名です。
藩校である日新館に入学できるのは10歳からでしたが、
その教育は、日新館に入学する前から行われていました。
6歳から9歳までの幼年者は、地域ごとの組に振り分けられました。
これらの組は「お話の什(じゅう)」または「遊びの什(じゅう)」と呼ばれ、
子供同士の「遊び」のなかから、年長者への礼儀やさまざまな知識を身につけさせようというのが狙いでした。
そのベースとなるのが、有名な以下の「什の掟」です。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱いものをいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
什長はこの掟を読み上げます。
子供たちは一条ごとに「はい」といいながらお辞儀。
これは、年長者の言葉を敬虔に聴いて返事をし、許されたことを感謝するという礼儀を体で覚えるためだそうです。
読み終わってからが本番。
什長は、昨日から今日までの間に掟に背いたものがいないかどうかを問います。
そして証言があがれば、それが真実であるかどうかをその者に審問します。
真実であれば、さあ大変!
こわ~い罰が待ってます。
一同にお辞儀をして詫びたり、「しっぺ」をくらったり(笑)。
そしてその後は、日が暮れるまで遊んだそうです。
こういったことを毎日していると、中には、9歳ぐらいの子供では違反かどうかを判断できないケースがでてきます。
たとえば、外で母親と立ち話をした場合。
「お前、外で女と話していたのを見たぞ~」
「え、でもあれ母上だから」
「でも女にはかわりないよね!」
「什長、どうなの?!」
什長クン(9)は困ります。
どっちが正しいのかなんて、正直判断できません。
こんなとき、什長はどうしたかというと、10歳以上の人に聞いたのだそうです。
それでも判断つかなければさらに年上に聞く。
周りに適当な人がいないからといって、後回しにすることは許されません。
座から外へでて、通りがかりの人を呼び止めて聞く、なんてこともOKだったようです。
こうして什長が出した答えに、子供たちは従います。
著者の早乙女貢氏は、このようにして養われた判断力や思考力があればこそ、
16、17歳の白虎隊少年兵でも、戸ノ口原での西軍との戦い、そして撤退といった集団行動を可能にし、ついには飯盛山での集団自刃といった武士道の華を咲かせる結果となった、としています。
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鶴ヶ城が落ちたと判断した16、17歳の少年たちが、
年上のいない飯盛山で全員自刃という結論を出した。
すごいことだなぁとは思っていましたが、やはりその行動の根底には、
武士道だけでは片付けられない会津の教育があったんですね。
潔く生きるなら問題は後回しにしちゃいけないね。
・・・私も見習おうと思いました(笑)。
あと1週間ほど経ちましたら、ちょぼちょぼと更新を再開していく予定です。
今しばらくおまちください。
■今予定しているエントリー
・幕末に生きた女性のあれこれ
・海援隊隊士入隊時期の続き(実はまだ途中・・・)
※あくまでも予定ですよー。
]]>最後は西軍に斃されてしまうのですが、早乙女貢氏著の「会津士魂〈9〉二本松少年隊」では、小川を斃した後の西軍の行動が次のように記されています。
「大した敵であった」※会津士魂〈9〉二本松少年隊より引用
と、手こずらされただけに西軍は小川の死体を見て慨嘆した。
「こやつ軍師だというぞ、山鹿流の兵法師範だそうな」
「山鹿流か何か知らんが、勇気があることは確かだ」
「どんな胆をしているかな」一人が言った。「勇気のあるやつの胆を食うと、こちらも剛勇の士になるというぞ」
「まさか」
「いや、本当だ。わしも聞いたことがある」
別の男も言った。その間に、一人が脇差を抜いて、小川の腹に刺した。まるで、牛か鶏でも裂くように、すーっと、切り開いた。
「どれだ胆は」
「まあ、任せろ」
こんな経験は何度でもあるかのように、一人が、血の中に手を突っ込んだ。どろどろの血の塊のようなものを掴みだした。
「やあ、生胆だ」
「おい、一人占めにするのか」
「われわれにもよこせ」
「騒ぐな、みんなにもやるさ、待ってろよ」
その脇差を包丁のようにして、生胆をざくざく切った。まわりにいた連中は、争ってつかみとってむしゃむしゃと食ったという。
「度胆を抜く」とはまさにこのこと!
このくだりを読んだとき、私は「えー、これってフィクションだよね」と、頭から疑っていました。
幕末って意外と最近のことだし。
が!
本当にあった話なのかもしれませぬ~・・・。
中村彰彦氏の著書、「幕末を読み直す―通説が語らない「歴史」の真実」では、幕末までは上記のような風習が残っていたことが紹介されていました。
また、「二本松藩史」にも、西軍が小川の胆を抜き取って食したことが記されてるようです。
軍師たることを知るに及んで、相語りて其の勇を称し、潜に胸を割いて胆を取り、争つて之を喰いしと云ふ、蓋し其の胆勇を学ばんと欲してなり
「ドギモを抜く」
「キモが座っている」
「キモが小さい」
これらの表現は、実際にあった風習から生まれたものだったのでしょうね。
やー、ちと猟奇的なエントリーになってしまいました。
お食事中の方、ごめんなさい!
松平永芳氏は、幕末の福井藩主・松平春嶽の孫にあたる方だそうです。
ご冥福をお祈りいたします。
]]>宮部鼎蔵については不勉強でして・・・。
「池田屋事件で斃された志士たちのリーダー格。池田屋では自刃」「吉田松陰と交流があった」ということ意外はあまり知らないのです。
私のような人間のために(笑)、地元の方々には顕彰事業をがんばっていただきたいです。
ちなみに除幕式には、宮部の曽孫にあたる方も来賓として出席していたようです。
高名な幕末の志士の子孫というのは、どんな気持ちなんでしょうか!
坂本龍馬ゆかりの書簡は現在、約130通ほど残っているそうですが、その半数が集められているそうです。
目玉はなんと言っても「龍馬書付(薩長同盟裏書)木戸孝允宛」(宮内庁書陵部蔵)でしょう!
薩長同盟に間違いがないことを証明するため、坂本龍馬が密約書の裏に朱で書きつけたという文書ですね。
見たい!見たい!
京都国立博物館にて、7/16から8/28まで。
]]>管理人、多忙につきメモのみ。
]]>管理人、多忙につきメモのみ。
]]>6/30、福井県小浜市にて梅田雲浜の顕彰祭が催されたようです。
梅田雲浜は、尊皇攘夷を唱えて安政の大獄で獄死した幕末の志士。
ペリー来航後に攘夷運動の中心となった人物です。
6/30って、なにか梅田雲浜にまつわる日なんでしょうか??
天誅組の変の舞台、東吉野村にて、生き残った志士・北畠治房(平岡鳩平)の手紙が見つかったそうです。
その手紙では、幕府にへつらうやつを懲らしめるため『天誅(天罰)を加える』などと立て札に書いたのが天誅組の由来であり、「天子(天皇)に忠する」の意味じゃないよ!と指摘しているのだとか。
東吉野村で「天誅組終焉の地」展が開催中らしいのですが、そこでその手紙も見ることができるのでしょうか?
お近くの方、管理人の変わりにぜひ確かめてください。(笑)
慶応二年(1866)二月。
すでに薩長同盟は成立し、功績のあった亀山社中には諸藩からの参加者が増加します。
薩摩藩士・村田晋八らから社中に宛てられた手紙に、隊士の名前があります。
二月二十四日 村田晋八
川村与十郎
小谷耕造様
菅野覚兵衛様
小谷耕造
(越前:隊内唯一の佐幕派。)
佐幕派の人物も受け入れているところに、亀山社中の社風(?)が伺えます。
続く、同年三月。
龍馬が高松太郎に宛てた手紙の中で、池蔵太(土佐:天誅組の挙兵、禁門の変などで活躍。)の参加が提案されています。
左馬事ハ海軍の事ニハ今ハ不幸者と雖も、度々戦争致候ものなれバ、随分後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候。
文中の「左馬」が、池蔵太の別名・細川左馬之助を指しています。
池は、この直後の五月二日、帆船ワイルウェフ号の仕官として航海中に遭難、水死します。
このとき、同じく水死したのが、船長を務めていた黒木小太郎(鳥取:文久三年一月勝海舟に入門。)。
また、生き延びた者として、佐柳高治(讃岐)が判明しています。
この二名が社中に参加した時期は不明ですが、神戸海軍操練所以来、龍馬とともに行動していたのではないか、と言われています。
つづく。
]]>まじめに探してみると、結構おもしろいものがたくさんあります。
「これ!欲しい!」というものはかなりありますし、私も実際にかなり購入しています。(笑)
購入した商品を眺めてひとりでニヤニヤしているのも寂しい。
まだ購入に至らないものは、購入された方の感想を聞きたい。
ならばと、このサイトの別館をつくり、そこで紹介していくことにしました。
というわけで、幕末屋、仮オープンです。
ぜひ、遊びにきてください。
]]>「いろは丸」は、土佐藩が大洲藩から五百両で借りて海援隊に使わせた船で、慶応三年(1867)に、紀州藩の「明光丸」と衝突し、広島県福山市鞆町沖で沈没しています。
このとき、坂本龍馬は、当時の国際法である「万国公法」を持ち出し、紀州藩から七万両を賠償させることに成功しているのはご存知のとおりです。
その「いろは丸」の五度目の発掘調査が計画されているようです。
ちなみに、これまで発掘された品々は、いろは丸展示館にて見学することができます。
]]>タイトルの肥後藩士とは、日本人で初めて世界一周した人物、木村鉄太のことです。
彼が記した「万延元年遺米使節 航米記」を、熊本の郷土史家・高野和人さんが現代語訳していたのですが、それが地元の小中高校に贈呈された、というニュースです。
このサイトを立ち上げ、幕末関連のニュースを探すようになってみてわかったこと。
それは、日本のあちこちで、「郷土の偉人や歴史を、地元の人々にもっと深く知ってもらいたい」と願い、その研究をライフワークとしている人がたくさんいるということです。
素敵です!
幕末.netは、そんな研究者の方々を草葉の陰から影ながら応援しています!
さて、「万延元年遺米使節 航米記」ですが、日記と120枚に上るスケッチからなっているとか。
日記はもちろんおもしろそうなのですが、スケッチに興味をそそられます。
現代語訳ではすべてのスケッチが紹介されているのでしょうか?
Amazon.co.jpにありましたので、さっそく注文しました。
到着が楽しみ!
この祈祷札は、ペリー来航を受け、朝廷が全国の寺社に命じて「武運長久」や「国家安全」を祈らせた際に奉納された可能性が高いようです。
かなり大事に保管されていたようで、写真を見ると、文字もきれいに残っていますね。
それにしても、異国の脅威を祈りでなんとかしようなんて・・・
当時の公家がいかにパニックしていたのか。
その様子がうかがえます。