2005年05月24日
沖田総司:白河脱藩の時期
奥州白河藩士・沖田勝次郎の長男として生まれた沖田総司。
しかし、みなさんご存知のとおり、身分は「白河脱藩」とされています。
私はなんとなく、なにか理由があって、私衛館に内弟子として入門した時からすでに「白河脱藩」だと思っていました。
「沖田家文書」や「新撰組遺聞」によれば、沖田総司の入門期は9歳~13歳ぐらいだとされています。
・・・普通に考えるとそんな少年に脱藩などできるはずがないですよね。
では、いつ脱藩したのでしょうか?
それを知る手がかりとなる書簡があるようです。
安政六年(1859)四月十九日(5/14)※新選組日誌 コンパクト版〈上〉より引用
沖田総司、出稽古のため初めて小島家を訪れる。
○近藤門人、阿部候惣次郎来ル (「小島家日記」)
「阿部候」は奥州白河藩主の阿部氏のことで、沖田が後年「白河脱藩」を”自称”したとされるが、このとき沖田家はまだ阿部家とのつながりがあったことになる。現に、後に浪士組として上洛しその後、新徴組隊士となる義兄の林太郎は、文久三年五月ごろに提出した身上書に「阿部播磨守元家来」としており、上洛直前まで阿部家に籍があったことを物語っている。
沖田総司が生まれた年は天保一三年(1842)とされています。
上記の書簡から、16、17歳のころはまだ白河藩士として禄を食んでいたことになります。
また、沖田家文書にこんな記述があります。
当時元服し跡目相続すべき所、何故か大望を抱き、禄を戴くことを拒み、主家を脱藩し、相続は姉光子時に十四歳に婿を取り相続なさしめたり。其の養子は沖田林太郎藤原元常と云う。(沖田家文書)
つまり、総司が脱藩したため義兄の林太郎が沖田家を継いだ、とされているのです。
その林太郎が浪士組が結成されたのが文久三年(1863)に「阿部播磨守元家来」としていたということは、総司の脱藩時期は16~21歳ぐらいの間と考えられます。
それにしても、総司も林太郎もなんのために脱藩したのでしょうか?
浪士組に参加するためには、やはり「浪士」でなければならなかったのでしょうか・・・ね?
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2005年05月13日
山南敬助:「ヤマナミ」 or 「サンナン」?
山南敬助といえば、言わずもがな、非業の死を遂げた新撰組の大幹部です。
「山南」ってめずらしい性ですよね。
あなたはこれ、どう読んでますか?
昨年の大河ドラマをはじめ、多くの小説やドラマ・映画では「ヤマナミ」だと思います。
ちなみに私も「ヤマナミ」です。
しかし、こんな書簡が残っているそうです。
正月十五日※新選組日誌 コンパクト版〈上〉より引用
弐本 三南 啓助
一本 近藤 宗助
弐本 土方 年蔵
一本 中村太吉郎
一本 日野 信蔵
一本 井上源三郎
一本 原 幸之助
一本 土方 捨吉
古谷優之助
正月十六日
一本 近藤 勇先生
同 三男 啓介
同 近藤 宗助
一本 天野清十郎
古谷優之助
(「剣術覚書帳」)
文久元年(1861年)に、多摩の古谷道場で行われた新年の稽古の様子です。
「古谷優之助」が記しています。
ここに記されている「三南 啓助」「三男 啓介」は、山南敬助のことであると思われます。
「三南」「三男」は「ヤマナミ」とは読めません。
つまり、山南敬助は「サンナンケイスケ」と呼ばれていたことがわかります。
「誰が何本とったよ」というだけの書簡から、こんな興味深いことがわかるんですね!
余談ですが、「近藤 宗助」とは近藤勇の養父である近藤周助です。
勇に「先生」がついて周助に敬称がついていない・・・
ということは、このとき勇は私衛館四代目を継いでいたと思うのが普通ですよね。
ですが、小島鹿之助が佐藤彦五郎に宛てた書簡によりますと、四代目襲名披露の野試合が行われたのは同年の旧暦8月27日。
つまりこの稽古よりも八ヶ月以上も先のこととなっています。
野試合は本当にお披露目的なもので、実際はもっと前に継いでいたということなのでしょうか?
結婚式は挙げたけど披露宴はまだ、みたいな。
まあいずれにせよ、周助のこの結果ではすでに引退していてもおかしくないですが!