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二〇〇五年 五月 一三日(金)
山南敬助:「ヤマナミ」 or 「サンナン」?
山南敬助といえば、言わずもがな、非業の死を遂げた新撰組の大幹部です。
「山南」ってめずらしい性ですよね。
あなたはこれ、どう読んでますか?
昨年の大河ドラマをはじめ、多くの小説やドラマ・映画では「ヤマナミ」だと思います。
ちなみに私も「ヤマナミ」です。
しかし、こんな書簡が残っているそうです。
正月十五日※新選組日誌 コンパクト版〈上〉より引用
弐本 三南 啓助
一本 近藤 宗助
弐本 土方 年蔵
一本 中村太吉郎
一本 日野 信蔵
一本 井上源三郎
一本 原 幸之助
一本 土方 捨吉
古谷優之助
正月十六日
一本 近藤 勇先生
同 三男 啓介
同 近藤 宗助
一本 天野清十郎
古谷優之助
(「剣術覚書帳」)
文久元年(1861年)に、多摩の古谷道場で行われた新年の稽古の様子です。
「古谷優之助」が記しています。
ここに記されている「三南 啓助」「三男 啓介」は、山南敬助のことであると思われます。
「三南」「三男」は「ヤマナミ」とは読めません。
つまり、山南敬助は「サンナンケイスケ」と呼ばれていたことがわかります。
「誰が何本とったよ」というだけの書簡から、こんな興味深いことがわかるんですね!
余談ですが、「近藤 宗助」とは近藤勇の養父である近藤周助です。
勇に「先生」がついて周助に敬称がついていない・・・
ということは、このとき勇は私衛館四代目を継いでいたと思うのが普通ですよね。
ですが、小島鹿之助が佐藤彦五郎に宛てた書簡によりますと、四代目襲名披露の野試合が行われたのは同年の旧暦8月27日。
つまりこの稽古よりも八ヶ月以上も先のこととなっています。
野試合は本当にお披露目的なもので、実際はもっと前に継いでいたということなのでしょうか?
結婚式は挙げたけど披露宴はまだ、みたいな。
まあいずれにせよ、周助のこの結果ではすでに引退していてもおかしくないですが!
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