2005年08月10日

会津藩の幼年者教育

会津藩校日新館と会津武家屋敷発行の『会津藩校日新館と白虎隊』という本を入手しましたので、前回の予告をあっさり変更して(笑)、会津藩の幼年者の教育方法を紹介したいと思います。

会津藩といえば、教育に力を入れていたことでも有名です。
藩校である日新館に入学できるのは10歳からでしたが、
その教育は、日新館に入学する前から行われていました。

6歳から9歳までの幼年者は、地域ごとの組に振り分けられました。
これらの組は「お話の什(じゅう)」または「遊びの什(じゅう)」と呼ばれ、
子供同士の「遊び」のなかから、年長者への礼儀やさまざまな知識を身につけさせようというのが狙いでした。

そのベースとなるのが、有名な以下の「什の掟」です。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱いものをいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

什長はこの掟を読み上げます。
子供たちは一条ごとに「はい」といいながらお辞儀。

これは、年長者の言葉を敬虔に聴いて返事をし、許されたことを感謝するという礼儀を体で覚えるためだそうです。

読み終わってからが本番。
什長は、昨日から今日までの間に掟に背いたものがいないかどうかを問います。
そして証言があがれば、それが真実であるかどうかをその者に審問します。

真実であれば、さあ大変!
こわ~い罰が待ってます。

一同にお辞儀をして詫びたり、「しっぺ」をくらったり(笑)。

そしてその後は、日が暮れるまで遊んだそうです。


こういったことを毎日していると、中には、9歳ぐらいの子供では違反かどうかを判断できないケースがでてきます。

たとえば、外で母親と立ち話をした場合。

「お前、外で女と話していたのを見たぞ~」
「え、でもあれ母上だから」
「でも女にはかわりないよね!」
「什長、どうなの?!」

什長クン(9)は困ります。
どっちが正しいのかなんて、正直判断できません。

こんなとき、什長はどうしたかというと、10歳以上の人に聞いたのだそうです。
それでも判断つかなければさらに年上に聞く。

周りに適当な人がいないからといって、後回しにすることは許されません。
座から外へでて、通りがかりの人を呼び止めて聞く、なんてこともOKだったようです。

こうして什長が出した答えに、子供たちは従います。

著者の早乙女貢氏は、このようにして養われた判断力や思考力があればこそ、
16、17歳の白虎隊少年兵でも、戸ノ口原での西軍との戦い、そして撤退といった集団行動を可能にし、ついには飯盛山での集団自刃といった武士道の華を咲かせる結果となった、としています。

鶴ヶ城が落ちたと判断した16、17歳の少年たちが、
年上のいない飯盛山で全員自刃という結論を出した。

すごいことだなぁとは思っていましたが、やはりその行動の根底には、
武士道だけでは片付けられない会津の教育があったんですね。


潔く生きるなら問題は後回しにしちゃいけないね。
・・・私も見習おうと思いました(笑)。

会津武家屋敷・会津藩校日新館

01:会津藩: 01:11 | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年07月29日

予告

管理人多忙のため、更新がとまっております。
スミマセン~。

あと1週間ほど経ちましたら、ちょぼちょぼと更新を再開していく予定です。
今しばらくおまちください。

■今予定しているエントリー

・幕末に生きた女性のあれこれ
・海援隊隊士入隊時期の続き(実はまだ途中・・・)

※あくまでも予定ですよー。

20:お知らせ: 00:16 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年07月20日

本当に「度胆」を抜かれた二本松藩士

二本松藩・小川平助は、一個小隊で薩長土、彦根、大垣、忍、館林、黒羽の大軍を相手に健闘した、優秀な軍師でした。

最後は西軍に斃されてしまうのですが、早乙女貢氏著の「会津士魂〈9〉二本松少年隊」では、小川を斃した後の西軍の行動が次のように記されています。

「大した敵であった」
と、手こずらされただけに西軍は小川の死体を見て慨嘆した。
「こやつ軍師だというぞ、山鹿流の兵法師範だそうな」
「山鹿流か何か知らんが、勇気があることは確かだ」
「どんな胆をしているかな」一人が言った。「勇気のあるやつの胆を食うと、こちらも剛勇の士になるというぞ」
「まさか」
「いや、本当だ。わしも聞いたことがある」
別の男も言った。その間に、一人が脇差を抜いて、小川の腹に刺した。まるで、牛か鶏でも裂くように、すーっと、切り開いた。
「どれだ胆は」
「まあ、任せろ」
こんな経験は何度でもあるかのように、一人が、血の中に手を突っ込んだ。どろどろの血の塊のようなものを掴みだした。
「やあ、生胆だ」
「おい、一人占めにするのか」
「われわれにもよこせ」
「騒ぐな、みんなにもやるさ、待ってろよ」
その脇差を包丁のようにして、生胆をざくざく切った。まわりにいた連中は、争ってつかみとってむしゃむしゃと食ったという。
会津士魂〈9〉二本松少年隊より引用

「度胆を抜く」とはまさにこのこと!
このくだりを読んだとき、私は「えー、これってフィクションだよね」と、頭から疑っていました。
幕末って意外と最近のことだし。


が!

本当にあった話なのかもしれませぬ~・・・。
中村彰彦氏の著書、「幕末を読み直す―通説が語らない「歴史」の真実」では、幕末までは上記のような風習が残っていたことが紹介されていました。

また、「二本松藩史」にも、西軍が小川の胆を抜き取って食したことが記されてるようです。

軍師たることを知るに及んで、相語りて其の勇を称し、潜に胸を割いて胆を取り、争つて之を喰いしと云ふ、蓋し其の胆勇を学ばんと欲してなり

「ドギモを抜く」
「キモが座っている」
「キモが小さい」

これらの表現は、実際にあった風習から生まれたものだったのでしょうね。


やー、ちと猟奇的なエントリーになってしまいました。
お食事中の方、ごめんなさい!

03:奥羽越列藩: 00:49 | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年07月12日

松平永芳氏死去/靖国神社第六代宮司

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松平永芳氏は、幕末の福井藩主・松平春嶽の孫にあたる方だそうです。

ご冥福をお祈りいたします。

10:幕末トピックス: 21:24 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年07月11日

幕末の志士・宮部鼎蔵 御船町上野住民有志らが銅像建立

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宮部鼎蔵については不勉強でして・・・。

「池田屋事件で斃された志士たちのリーダー格。池田屋では自刃」「吉田松陰と交流があった」ということ意外はあまり知らないのです。

私のような人間のために(笑)、地元の方々には顕彰事業をがんばっていただきたいです。


ちなみに除幕式には、宮部の曽孫にあたる方も来賓として出席していたようです。
高名な幕末の志士の子孫というのは、どんな気持ちなんでしょうか!

10:幕末トピックス: 22:30 | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年07月09日

書簡ににじむ繊細さ──「龍馬の翔けた時代―その生涯と激動の幕末」展

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坂本龍馬ゆかりの書簡は現在、約130通ほど残っているそうですが、その半数が集められているそうです。

目玉はなんと言っても「龍馬書付(薩長同盟裏書)木戸孝允宛」(宮内庁書陵部蔵)でしょう!

薩長同盟に間違いがないことを証明するため、坂本龍馬が密約書の裏に朱で書きつけたという文書ですね。

見たい!見たい!

京都国立博物館にて、7/16から8/28まで。

10:幕末トピックス: 21:57 | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年07月08日

薩摩藩使節団長・岩下方平のパリ万博での写真現存

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管理人、多忙につきメモのみ。

10:幕末トピックス: 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)